2025.07.24 東北巡行:奥入瀬渓谷編(その3)



 

■ 渓谷道路の開通と国立公園化の経緯について




さてここでいくらか余談を書いておきたい。 道路開削の歴史的経緯についてだ。

この道路の開削は新しく、明治36年に営林署による林道が開削されたことに始まる。  江戸時代には十和田湖西岸は秋田藩の領地で、湖畔の鉛山で銅、銀の鉱山が発見されたことから峠道が開かれた。しかし南部藩領であった湖の東岸側には目立った資源はなく、とくに開発もされぬまま捨て置かれていた。もちろん、道らしい道はない。




ここに道路が開かれた遠因としては、日露戦争への準備という側面があった。 ちなみに目前にある八甲田山ではシベリアに気候風土が似ているとして陸軍の訓練が行われ、有名な雪中行軍遭難事件(明治35年:のちに「八甲田山」のタイトルで映画化もされた)などが起きている。 この事件の翌年に林道が開削され、さらに2年後の明治38年が開戦の年であった。

林道は細長い日本列島の日本海側~太平洋側を結ぶ連絡路確保の一環としてつくられている。 もしロシア軍による日本本土上陸戦が合った場合、津軽海峡や宗谷海峡は封鎖される可能性が高い。そうなると日本列島の東西は船運で物資を輸送できず、内陸に輸送路を確保しなければならない。当時の日本列島はこれがまだ脆弱で、特に東北地方では奥羽山脈をいかに抜けるかという課題があった。

十和田にあっては既に秋田から発荷峠まで道路が貫通しており、十和田湖畔に15kmほど道を開削すれば八戸までがつながる状況だった。 これを営林署の予算でセコいながらも迅速に行ったのは、なかなかにうまい方法論のように筆者には思える。




幸いなことに日露戦争は本土決戦には至らず、旅順要塞戦、奉天会戦、日本海海戦を経て明治38年(1905)9月に日本の勝利が確定した。 そしてこの林道は、軍事に活用されることもなく、知る人ぞ知る秘境の道としてひっそりと森に沈んでいった。



事態が変わったのは戦争終結から3年後のことであった。青森出身の雑誌編集者:鳥谷部春汀が、作家の大町桂月に 「よい景色がある」 と声をかけ、招いたのである。大町は十和田の風景をみていたく感動し、紀行文を書いた。

そして鳥谷部が編集長を務める雑誌:太陽にそれを発表した。これが奥入瀬渓谷が一般に知られる切っ掛けとされている。 大町桂月はここを大変に気に入ったようで、都合十度ほども来訪して後に本籍まで移してしまうほど惚れ込んだ。

十和田湖は天下無双なり
『山は富士 湖は十和田』 といいたる
ついでに 『渓流は奥入瀬』

渓谷には当時宿泊施設がなかったが、大町はやや八甲田寄りの蔦温泉に逗留し、冬を越しながら 「蔦温泉帖」 「冬籠帖」 などの著作を残している。 斯様に、一人の作家の人生を変えてしまうほど、十和田湖~奥入瀬の風景は魅力的だったようだ。


さてここでさらにひとつ事件が起こる。なんとその紀行文を大正天皇(当時は皇太子)が読んでおり、全国知事会の会合で、十和田湖と奥入瀬渓谷について 「希望すれば訪れることは可能か」 と質問したのである。



しかしこのとき、青森県知事:武田千代三郎は地理的な予備知識がなく、 しどろもどろになって回答ができなかった。

実は彼は九州:筑後国の出身で、青森県のローカル地理には疎かったのである。 明治政府は維新後の改革断行のため、敢えて地元とは無関係の遠方から知事を任命する方針を取っていた。 その目的は過去のしがらみを断ったうえでの殖産興業と富国強兵で、知事会でもその遂行具合を報告するはずであった。 彼はまさか皇太子から "風景についての質問" が飛んでくるとは思っておらず、もちろん準備もしていなかった。

とはいえそこは九州男児のど根性というか、皇太子の御前で大恥をかいた後は、慌ててこの林道を県道に格上げし、現地を視察して往来の便を図った。 と同時に十和田の景観保護についても司令を出している。これを見る限り、武田知事は仕事の手腕には優れた人物であったようだ。

※写真は wikipedia のフリー素材を引用




のちに皇太子が正式に大正天皇として即位すると、農林省によって奥入瀬渓谷と十和田湖畔は "風致保護林" に指定された。 奥入瀬の観光資源化はこのあたりから始まっている。

ちなみに大正天皇は健康に問題があり、結果的に十和田を訪れることなく世を去った。訪問が叶っていたら地域振興に大きく貢献したであろうに、歴史にIFはないとは言いつつも、なかなか勿体ないことであったように思える。




その後、昭和11年になって十和田湖~奥入瀬渓谷は国立公園に指定され、現在につながる管理の枠組みができた。 その指定にあたっては "十和田湖を中心に国立公園を設置する請願" という文書が提出されており、それを書いたのはさきに紹介した大町桂月であった。

これを書いた後、大町は十和田にて没している。 現在我々が十和田湖~奥入瀬渓谷の景観を愉しむことができるのは、彼の活躍による保護と観光振興のバランスによるものともいえる。 筆者もささやかながら敬意を表したい。




■ 火山活動の名残




さて川の写真ばかりでなくいくらか周辺の状況も紹介しておきたい。奥入瀬川は深いU字谷の底を流れており、火山地帯らしく岩石がゴロゴロしている。土の層は薄く、わずかばかりの砂礫と腐葉土を抱え込んでブナ、楓などが繁茂する。下草は、シダ類が多い。




このゴロゴロしている岩は、火山噴出物ではあるのだろうが直接火山弾のように振ってきたのではなく、外輪山の崩壊および十和田湖水の大量流下によって谷が削られたときに崖面から崩落したものらしい。

航空測量データで見る奥入瀬渓谷は、崖面の段差が50mほどもあって切り立っている。崖底は幅が50~100mほどあり、ここに奥入瀬川とR102が通っている。山体崩壊から1万5000年かけてゆるやかに砂礫が溜まり、周辺の山々からブナが進出してそこそこ安定した樹相を形成している。




このブナの進出パワーと川による浸食作用がうまく釣り合っているのが現状のこの風景なのだろう。奥入瀬渓谷は渓流としては流れが緩やかで、勾配比は1.5%くらいしかない。制御された水量と相俟って石ころだらけの河原は生成されず、林間を水がゆるゆると流れ下る渓相となった。 これは日本の河川としてはとても珍しい。




一方、山体崩壊時の置き土産である崖面は、かなり切り立った状態で現在も残っている。馬門岩とか屏風岩などという名がついており、これは十和田火山より古く八甲田山の噴出物が堆積したものらしい。




地質調査によると岩石の形成時期は76万年前だそうで、筆者的には 「へ~」 で終わってしまいそうだが、マニアにとってはまた別の価値があるのだろうな。




そのままゆるゆると下って石ヶ戸の休憩所を過ぎると、川相はなんとなく普通河川のような雰囲気になった。




見れば石ころだらけの河原があり、水もいくらか濁りがある。支流がいくつも合流したことで十和田湖の透明な水も混ざりものが増えてしまっているようだ。

こうしてみると、奥入瀬渓谷の見ごたえのある範囲は十和田湖畔(子ノ口)から10kmくらいまでと見て良さそうだな。 それより下流側では特徴が薄れて普通の河川に近くなってしまう。 もしこれから奥入瀬に向かう人がいたら、見どころは上流側ですよと伝えたいところだ。



 

■奥入瀬渓流館




さてやがて焼山地区に到達した。 ここには奥入瀬渓流館なる観光案内所がある。 多くの観光客は青森市や八戸市からここを目指してやってきて、一服してから十和田港方面まで渓谷を登っていく。 筆者は今回、真逆の秋田県側からアプローチしているので最後の最後にこの資料館に至っている訳だが、本来はここに寄ってから遡上するのが正規のコースであるらしい。




おかげで解説パンフレットをGETしても 「すでに通りぎて来ちゃったよ!」 という状態でセルフツッコミがいろいろと(笑) まあこのへんは致し方あるまい。




館内はこんな感じで、休憩所と観光案内所とお食事処を兼ねていた。 夏休み期間中の割にファミリー客はそれほどいない。一人旅か老人夫婦の二人旅か、その二択といった感じだろうか。

夏の奥入瀬渓谷は筆者にとっては充分愉しめた風景だったけれども、世間的にはオンシーズンは新緑 or 紅葉ということで、夏場はちょっと微妙なのかもしれない。




ということで、ここまでほぼ無補給で移動してきたのでいくらか腹ごしらえしてみることにした。 店員氏に 「適当にお勧めのやつ!」 といって出てきたのは、青森名産らしいアップルパイとホイップ山盛りのよくわからないソーダ的な飲み物。 とりあえずこれで一服としよう。




■答え合わせの問答




せっかく資料館に来たのでいくらか解説員氏に質問してみた。 上流と下流で渓相が異なることについては、やはり流入する支流の数が関係しているらしい。上流側(支流が少ない)は制水門のコントロールがうまく効いており、大雨が降ってもあまり氾濫が起こらない。だから岸辺ぎりぎりまで植物が繁茂するし苔類も多いという。

しかし下流側では途中流入する支流の水の影響で氾濫が起こりやすくなる。 川相は石ころだらけになって、植物の種類もハンノキやヤナギなど一般河川の樹相に寄ってくる。 奥入瀬渓谷らしい風景を求めるなら、やはり上流側のほうが良いようだ。




そしてもうひとつ。橋の上から川を見降ろしても、筆者には魚影がみつけられなかった。これに関して、もしかすると火山湖は酸性がつよくてそこから下る川にも魚がいないんですかね、と聞いてみた。

「んなこたーねースよ」 と職員氏は笑っていた。 十和田湖は火山湖ではあるけれど酸性度は高くない。魚がいなかったのは銚子大滝という魚止めの滝(落差が大きいので魚がそれ以上遡上できない)があるためで、滝より下流側にはイワナなどがいるという。




つまり筆者の眼は節穴であったということか。 なんてこったい(笑)




……とまあ、オチがついたところで名物らしいソフトクリームを頂いて〆としたい。
もう少しカッコいい終わり方が出来れば良かったのだけれどな(笑)

<十和田~奥入瀬編:完>



 

■ あとがき




本来なら十和田湖、奥入瀬渓谷ともそれぞれ丸一日くらいかけてゆったり散策したいコースではありましたが、浮世の底辺サラリーマンとしては限られた時間と予算のなかで精一杯、駆け抜けるような訪問をしてみたというレポートになります。

十和田湖のある奥羽山脈は東北地方の中心線ともなる山々の連なりで、並行して走る出羽山地、北上山地とともに人々の生活圏を分断してその往来を阻んできたという歴史があります。おかげで岩手~秋田~青森には狭い平地ごとに特色のある文化が根付いた訳ですが、なかでも十和田の山々は長らく人の生活圏とはならず、限られた修験者のみが足を踏み入れる秘境となっていました。

それが人々に知られるようになったのは明治も後半になって林道が通じて以降のことで、その経緯は本文中に書いた通りです。林道の開削は日露戦争という国家の一大事を控えて突貫工事で行われたようで、普通なら道を通すのをためらうような川筋ぎりぎりのコースとなったのは、狭いU字谷の底でとにかく工事期間を短くするための選択だったのでしょう。現地をみれば分かりますが、谷の崖面近くには大岩がゴロゴロしていてとても車両が通れるような空間はなく、必然的に水流ぎりぎりにならざるを得ない地形なのです。

しかしこれが透明度の高い渓流を間近に見ることのできる散策コースとしても機能し、奥入瀬の観光的な魅力の源泉となりました。 もしこれがのんびりとした緊張感を欠く時代に開削されて、九十九折(つづらおり)でクネクネと山越えをするルートになっていたら、現在のような人気の観光スポットにはなっていなかったでしょう。

筆者はこれまでに〇〇渓谷と名の付く景観をいくつも見てきましたが、奥入瀬ほど水に近いところを通る幹線道路をみたことがありません。景観もさることながら、建設工学的な立場からもいろいろと面白い視点で学びがあるところだと思います。その意味では、やはり予習をしっかりして見に行くべきところなのだろうなと思ってみました。

【おしまい】