2025.07.24 東北巡行:陸奥湾編(その2)




■ 遠方から恐山を望む




横浜を出てしばらく北に向かうとむつ市の領域に入る。この写真は横浜町の北端のあたりで、海岸線ぎりぎりまで山の斜面がきているので道路も海沿いを走り、眺めは良い。 これがむつ市に入って後背地に余裕がでると、道路が内陸側に引っ込んで視界が通らなくなる。 海の風景を愉しむなら横浜町にいるうちにカメラを構えたほうがいい。




ちなみにここからは恐山の外輪山のひとつである釜臥山がよくみえる。霊場はあの山の向こう側になる。 まだ遠方ではあるけれど、今回の旅の最大の目的地はあそこだ。

恐山は平安時代初期に天台宗の僧:慈覚大師円仁が開いたとされ、そのとき菩提寺という寺が建てられた。戦国時代にいちど廃寺になり、今はヴァージョンⅡにリニューアルして存続している。




最果ての地にある死者の魂の集うところ……千年以上も続く霊場か。どんなところなのだろうね。



 

■ むつ市街へ




そのままR279を進むとやがて市街地に入った。

ここからはむつ市の中心地である田名部(たなぶ)を目指していく。ちなみに "むつ市" とは昭和35年に田名部市から改称されたもので、日本で初めて登場した平仮名の自治体だった。 筆者的には 「もうすこし歴史と威厳を感じさせる名前でも良かったのでは」 と思わないでもないけれど、ご当地の決めたことなので異論は挟まない。 




むつ市の地勢はこんな(↑)感じで、田名部川の河口のデルタ地帯に市街が広がり、西端の砂州で囲まれた大湊湾内は港になっている。ここは古くは北前船の待機所として使われ、戦前には帝国海軍の基地が置かれていた。 現在は海上自衛隊が駐屯しており、民間船は軍艦を避けて田名部川の河口に開かれた港を使用している(こちらも大湊港と呼ばれている)。

この一帯は季節風が強く、風の当たる海岸線には建物がない。市街地はJR大湊線を境界として内陸側に分布し、線路から海岸側は幅500mほどもある広大な防風林帯となっている。

湾の西端は恐山山系の釜臥山が天然の風除けとなっている。 ここだけは海岸ぎりぎりまで市街地が広がり、船着き場もこちら側に寄せて発達した。




市街地をもうすこしアップで図示するとこんな感じになる。町を縦貫する田名部川を河口から4kmほど遡ったあたりに原初の街区と思われる田名部町/本町の名がみえる。 海沿いではなく川を数km遡ったところ、かつ川の湾曲部というのは鮭が遡上して産卵する場所の特徴でもあり、狩猟採集民が集落をつくるなら確かに合理性がありそうなところだ。 そうやって出来た蝦夷の集落がやがて和人と同化したと思えば筆者としては納得なのだが……実のところ、町の起源はよくわかっていない。

文献上に田名部が登場するのは鎌倉時代で、当初は南北朝時代の南朝の末裔である北部王家が割拠していたが、やがて南部領としての支配権が確立した。のちに南部藩の代官所が置かれ、明治維新まで存続している。

代官所から川を挟んだ南側には1km四方くらいの新町と呼ばれる区画がある。本町や田名部町と比べると面積は10倍以上あるが細かい区分はなく、藩政時代の町衆はこのあたりに住んだらしい。それより南側、あるいは東側は、田名部川がしばしば氾濫して水害を起こしたため民家は少なかった。 旧市街も新町も、氾濫した水に浸からない程度の高台部分に分布していて、町割りは合理的に出来ている。町の規模は江戸時代:寛政年間の頃におよそ350戸、住民は2000人程度であった。

※市内を流れる "新田名部川" は田名部川の氾濫を抑える為に昭和になってから造られた放水路で、南部藩時代には存在しない。




その新町に、円通寺という仏寺がある。あまり派手に宣伝されてはいないけれど、恐山の霊場を管理しているのが実はこの円通寺だ。

筆者は恐山の霊場を訪れるのは明日にする予定でいるのだが、日暮れまでには幾らかの時間があるので、今日のところはまずこの寺に寄ってみよう。



 

円通寺




そんなわけで円通寺にやってきた。ここは戦国中期の大永二年(1522)、曹洞宗の僧:聚覚(じゅがく)によって建てられた寺で、南部氏(根城南部氏)の援助もあって市街の一等地に伽藍を構えた。 本町ではなく新町側であったのは、まあ後発組の宿命みたいなものであろうか。 それでも新町の領域内では本町に隣接したよい場所に配され、なかなかに厚遇されていた様子が伺える。

寺の開祖:聚覚は下総国(現在の千葉県北部)の出身の禅僧で、東北地方各地を巡礼したのちにここに至って草案を結んだ。どのような経緯で南部氏と関わったのかは不明だが、当時の領主:南部政栄との関係は良好であったらしい。




聚覚の属した曹洞宗は個人の内面のあり方を重んじ 「屁理屈は要らん、黙って座禅して悟りを開け」 というシンプルな教えを説く。 その分かりやすさから下級武士や農民に人気があった。 大名クラスの上級武家になると禅宗の中でもインテリな臨済宗を好む層が増えるのだが、南部政栄はどうやら脳筋系の人であったらしく、曹洞宗と結んだ。

この円通寺に、なんと恐山の管理が託された。享禄三年(1530)のことで円通寺の開山からわずか8年後である。田名部町史には "恐山菩提寺を中興" したとある。このとき恐山は天台宗から曹洞宗に転換したようだ。

とはいえ円通寺は恐山を乗っ取った訳ではなく、もともと恐山にあった天台系の菩提寺が戦国期の兵火で焼失(1456)し廃墟となっていたのを、新たに建て直したのであった。



簡単に経緯を説明すると、室町初期の1400年代には、のちに秋田氏を名乗る安東氏と南部氏が下北の領地争いをしており、恐山の周辺は安東氏の支配下にあった。

このとき、田名部(というより大湊港の自衛隊基地のあたり)の順法寺城に南朝の皇族の生き残りがいて北部王家を称していた。これが南北朝合一を果たした室町幕府に恭順の姿勢を示したところに、安東氏の郎党;蛎崎蔵人信純が介入して謀殺するという事件がおきた。

東北太平記によるとこのとき蛎崎蔵人は平和裏に北部王家の養子となり家督相続する手筈であった。しかし実は当主を殺害して家督相続を偽装していたのがバレてしまい、幕府、朝廷と関係が悪化、隣接する南部氏ともモメ事となった。



このとき蛎崎氏は電撃戦で南部領に攻め込み、北部王家の所領を大きく超えて実力で版図拡大を図った。 のちに蛎崎蔵人の乱と言われる事件である。 南部氏は初動が遅れ、一時は七戸あたりまでを占領されることとなった。



しかしやがて南部氏の反撃が始まり、トコロテン式に蛎崎氏(安東氏)の勢力は押し戻され、そればかりか居城のある蛎崎をも落とされてしまう。居場所のなくなった彼らは蝦夷ヶ島(北海道)に逃げ、ここで下北半島は全領域が南部氏のものとなった。逃亡した蛎崎氏はのちに蝦夷ヶ島で再起し、松前氏を名乗ることになるのだが、話し始めると長いのでそこは省略しよう。

……で、肝心の恐山菩提寺だが、この南部氏による反撃戦のなかで綺麗さっぱり焼き払われてしまった。 戦国期の天台宗寺院は僧兵として動員されることもあったので、南部氏からは 「敵対勢力」 とみなされたのかもしれない。  跡地には、境内に涌いていた温泉だけが残った。




廃墟と化した菩提寺跡は、管理する者もおらず秘境の園地という状況のまま80年余りが経過した。 筆者はこの間に "民間信仰としての霊場" がゆるやかに成立したのではないかと推測している。

そして南部氏は、この霊場を天台宗には渡さず、敢えて異なる宗派:曹洞宗の円通寺に預けた。これには曹洞宗が政治闘争にはあまり加担しない宗派とみられていたことも大きいように思える。当時天台宗寺院は事実上の私兵集団とみられていたから、こんな連中に拠点を提供して反乱などされては堪らない、ならば牙は抜いておけという措置だったのかもしれない。




この円通寺の霊場管理は、かなり緩やかなものであったらしい。

復興した新・菩提寺は曹洞宗寺院としての体裁であったが他宗派が霊場に出入りすることは黙認されており、修験道(天台系/真言系)、浄土宗などの祭祀を執り行うことも許容されていた。戦国時代が終わり幕藩体制に移行してもしばらくはなあなあ的な共存関係が続いたらしい。

筆者が思うに、領主である南部氏は宗教的な細部には大して興味はなく、反乱や揉め事をおこさなければ良いという程度の扱いだったのではないか。




■しかし争いは起こった




しかし江戸時代の寛文年間(1661-1673)の頃から、円通寺と天台宗の蓮華寺との間で恐山の管轄権を巡る争いが表面化し始める。 対立の始まる直前、万治二年(1659)に円通寺には初代聚覚の出身寺:下総国東昌寺からのテコ入れが入っており、ここで寛容すぎる運営に喝(?)が入った可能性はあるが、詳細はわからない。

一方、蓮華寺の方は羽黒修験の系統に属する天台寺院であった。 当時の羽黒修験は真言系の当山派から天台系の本山派に宗旨替えをして非常にオラついていた時期で、敵をつくっては論破⇒勢力拡大をはかるヤンキー(ぉぃ)みたいな連中だった。 円通寺はこのヤンキーに噛みつかれて因縁をつけられたようにもみえる。いずれにせよ双方の争いはここから激化し、なんと100年以上も続いた。

ちなみに宗教的正統性というのは大抵の場合、屁理屈の応酬になってグダグダになっていく。 本件もまったく同じで、これには代官所も頭を抱えたことだろう。




とはいえ嘘でも屁理屈でも百年も唱え続ければ優勢/劣勢の差が出てくる。円通寺は恐山菩提寺の開祖:慈覚大師直筆の経文(法華経)を継承している、だからウチのほうが正統だと主張していた。 開山から既に800年以上が経過しており、もはや経文の真贋判定などできよう筈もないのだが、しかし歴史とか伝統が絡むと古い方が優位になる。 そして蓮華寺は、これを覆す "新証拠" を提示できなかった。

やがてこの争いは安永九年(1772)に円通寺側の勝利で決着し、敗者となった蓮華寺は百年論争の責任を問われ、住職は幽閉、のちに寺そのものが廃寺処分となった。

このとき南部領内には、円通寺に味方した寺社、蓮華寺に味方した寺社それぞれのグループがあり、修験道としては宝蔵坊、実蔵坊、徳蔵坊などが蓮華寺に味方して没落し、円通寺に味方した大覚院は存続した。 この後に宗教論争の再発はないので、一罰百戒の効果は大きかったといえそうだ。

大覚院は現在も大覚院熊野神社として円通寺の隣にある。この事件の後、盛岡藩の公文書:南部領寺社鑑写には恐山の山域全体が円通寺の傘下にある旨の記述がみえるので、ここで現在につづく体制が固まったと見てよいだろう。




現在、円通寺本坊には恐山との繋がりを主張するような派手な碑や掲示物は見当たらない。予備知識がなければおそらく誰も恐山との関連には気付かないのではないだろうか。

この理由は、現地の風景を見た後になんとなく筆者は察したのだが、長くなるので明日のレポートで触れようと思う。




境内には人の姿は皆無で、おそろしく静かだった。

人の気配がないのは、 主要なスタッフが恐山の例大祭で留守にしているからだろう。  その点では筆者はちょっと微妙なタイミングで来てしまったのかもしれないな。


<つづく>