2025.07.24 東北巡行:陸奥湾編(その3)



 

■ 大湊駅




さて本日の主要な目的地は一通りチェックできたのだが、日没にはいくらか余裕があるので、余勢を駆って大湊線の終点:大湊駅を訪ねてみることにした。 ここは本州最北端の鉄道の末端にあたる。円通寺からは5kmほどで、クルマであれば10分もかからない。かつてはここが下北の玄関口であった。港も隣接しているので併せて見てみよう。




終点だからと言って特別な意匠や構造がある訳ではなく、駅の外観はごく普通だった。

大湊線はこの大湊駅と野辺地駅までの約58kmを結んでいる。他のJR線とは接続していない飛び地のような立地で、旧国鉄の分割民営化の影響で今の形態となった。 野辺地から先は弾三セクターとして "青い森鉄道" というのがあり、八戸や青森まで乗り継いで行くことが出来る。




大湊線はディーゼル区間で架線はない。ホームの向こう側はもう海で、かつては海運ともうまく接続できていた。 現在は貨物輸送はトラックに代替されて、港側は空き地が目立つ。




ちなみに駅舎内には旅行パンフレットがたくさんあった。見れば筆者の地元である塩原/板室の宣伝もいくらか見える。 いやぁ広報さんお疲れ様です、こんな地の果てまで営業が届いているとは(笑)





■ 海の風景




せっかくなので駅の裏手の港にも足を運んでみた。  戦前は軍用貨物がここを通じて帝国海軍の基地に供給されていた。 現在は漁港として使われており、かつて貨物倉庫のあったであろう区画は草地になっている。




陸奥湾の最奥部ということもあって、波はほとんどない。 おかげで防波堤は極端に低く、ほぼ桟橋みたいな存在感に留まる。




堤防の周囲には葦原がみえた。 葦は関東では霞ヶ浦などの淡水帯の湖沼に多く繁茂する植物だが、塩分に耐性があるので実は海水域でも育つ。  かつてはこれが、陸奥湾の海岸線にひろく分布したのだろう。 おもしろい風景だ。




ここで対照的な風景を載せてみよう。 北関東の住人である筆者にとっては、海といえば福島~茨城~千葉の太平洋岸のイメージで固められている。 写真は茨城の海になるが、大波がザブーンとやってくる外洋の末端部がどういうものか分かるだろう。 こういう場所では植物は波で駆逐されて、海岸はむき出しの岩礁か砂浜になってしまう。




それに比べて陸奥湾の海面はまるで湖か池のように穏やかだ。 こういうところであれば簡易なつくりの小舟でも往来は楽であろうし、港もつくりやすい。古代にあっては漁などもしやすかっただろう。




そういえば有名な三内丸山遺跡(青森市)も陸奥湾の海沿いだったな。 ためしに青森港の周辺を地図に起こしてみるとこんな状況(↑)で、今でこそ遺跡は海岸線から3kmあまり離れているけれども、縄文海進のあった6000年前頃には海沿いの立地で、背後には水源の川もあって暮らしやすそうなところだった。




同時期の田名部を類推してみると、海岸線はこんな(↑)感じになる。

ちなみに海進は+10mとして見積もっている。何を根拠に10mなのかといえば、田名部よりももっと陸内に最花貝塚という遺跡があって、縄文時代にはこの付近まで海が貫入していたことが分かっているからだ。 遺跡まで海水が来るのがちょうど+10m程度なのである(※)。

※遺跡は海岸段丘の上にあって標高20mくらいになる。ただし貝塚の主要堆積物は汽水域に棲むシジミ類なので、葦原が分布する程度の浅い入り江が出現する+10mくらいが適切ではないか……と、ここでは推測している。

余談ながら最花貝塚のあたりまで海水が来ると田名部町、本町付近(標高3m)は完全に水没してしまう。ということは田名部に集落が出来たのは縄文時代よりも遙かに後世ということになりそうだ。

なお海水面の上昇はこの後に平安海進(900~1100年頃)があり、やはり田名部は海中に没していたと思われる。田名部が文献に初登場するのはこれが終わったのち、鎌倉時代末期の正中二年(1325)以降のことだ。 鎌倉時代は気候的には寒冷期で海水面は低下、関東地方でもこの時期に陸地が大幅に増加して現代とほぼ同じ海岸線が出現している。 こういう視点で風景をみると、なかなかに想像力を刺激されて面白い。




そんなことを思いながら、暮れゆく港を眺めてみた。 漁港とはいっても船の数は少なく、歩いているのは怪しげな諜報員くらい。 …まあ、平和な風景だな。




■ 1日目の終焉




さて随分あちこちに話が飛んだけれども、ひとまず本日の所定のミッションはクリアした。夜も寝ないで突っ走ってきたので、さすがにいささか疲れたな。

今回予約した宿では夕食は出ないとのことで、筆者は田名部の旧市街の繁華街で小料理屋に入ってみた。ここは昔は遊郭街があったところだそうで、もちろん現代では店も入れ替わって普通の飲食街になっている。 古い都市の "発祥の地" はこんな感じで飲み屋街となっていることが多い。




地元産の海鮮天婦羅で舌鼓を打ちながら、店主氏といくらか無駄話をした。 話は自然と恐山の話題になる。本日迄が例大祭で、その期間はなんと5日間もあったらしい。 うまく日程を合わせられれば祭りのハイライトが見られただろうに、勿体ないことをしたな。

雑談はなかなかに愉しかった。 祭りが終わった後とあって客は少なく、店主氏も暇らしい。 聞けば恐山にいる死者の魂は意外とアクティブで、ハロウィンのお化けの如くいろいろなイタズラ(呪いとか祟りというほどのものではない)をするという。

どうやら霊場といっても陰鬱な感じはなく、死者の魂が飄々(ひょうひょう) と "この世" と "あの世" を行き交って遊んでいるという世界観らしい。 なるほどイタコによる口寄せが盛んなのにはそんな背景があるのだな。




「それで、誰に会いに行くのだね」

と店主氏は筆者に尋ねた。 遠方から来る参拝者はイタコ目的の人が多いらしく、どうやら筆者もそのうちの一人と思われたらしい。今回は風景を訪ねる旅であってTVの心霊番組の真似事がしたい訳ではないのだが(笑)、 話の腰を折るのもアレなので 「実は2年ほど前に父親が亡くなりまして…」 などと話を合わせてみた。 店主氏は細かい家庭の事情は詮索せず

「会えるといいね」

とだけ返した。 驚くほど自然で、ごく普通の会話として。

こういう話がごく普通に成立する街を、筆者は他に知らない。 心理学者であればどう説明するだろう。 たしかにここには、名状し難い何か共通の認識というか空気感がある。 すくなくとも死者との距離感は、あきらかに近い。

思えば不思議なところだ。


<後編につづく>